2021年1月24日日曜日

出:科学たるかたらざるか




科学の方法』(中谷宇吉郎、岩波新書)

本書は1958年に第1刷が発行されており、
手元にあるのは1997年の第53刷だ。
63年前に書かれた本を24年前に買い、今、読んだ。

夏への扉』と同じような経緯で読んだわけだが、
内容的にも似たような読書体験だった。

科学がテーマなのだが、
本書の時代は今よりずっと「科学」という言葉が
輝いていて、
夢や希望を託されていた。
それがオレの認識だ。

そんな時代の空気に冷や水を浴びせるがごとく、
本書の第1章は「科学の限界」だ。
つまりはそういう本だ。

科学は、再現可能で、測定などによって数値化できる問題には強いが、
そうでない問題にはからっきしである。
ただし、統計学を駆使することによって
科学の適用範囲は広がる。
鉄球の落下というような安定した現象だけでなく、
人の寿命というような個別には予測不能な事象も
集団を全体として統計的に扱うことにより
科学の対象にできる。
なんにせよ、科学は自然のすべてを扱えるわけではない。

本書の時代に比べれば今はだいぶ科学が進歩して、
本書中で未解決とされていた問題も
だいぶ研究が進んでいるはずだ。
それでも、本書の「何が科学の対象たり得るか」という議論は、
未だ古びていない。
──と、言いたいところだが・・・。


本書によれば、梅と桜の枝ぶりは一目見ればわかるのに、
その違いを量的に表そうとすると難しい。
「現代の」科学ではとらえきれない。
美術骨董品の艦艇なんかも、
分かる人には分かるが
誰でもわかるように数値化したりするのは困難だ。

さて、しかし。
本書で言う「現代」は今から60年前のこと。
2020年代の我々は、AIの長足の進歩を知っている。
写真から植物の名前を教えてくれるアプリがあるくらいだから、
AIにとっては梅と桜を見分けるくらいは
そんなに難しいことではないと推察する。

美術品の鑑定はそれよりはだいぶ難しいと思うが、
ブランド品の真贋の鑑定ならかなりの精度で
できるようになっているらしい。

問題は、機械学習が科学か、ということだ。
確かに数量化はされているが、AIの中身はブラックボックスで、
人間にはパラメーターの意味が分からない。
本書の議論はそういうものをまったく想定していないので
何とも言えないが、
それを科学と言ってしまうのはちょっと違う気がする。

例えば天文学では、AIは画像データを鮮明化したりするのに
使われている。
それによって観測精度が上がりはしたが、
その観測結果から理論を導くのは
未だ人間であるから、
AIが科学者に取って代わったわけではない。

なんだかんだ言って、
科学の方法が根底から覆ったわけではない。
多分そういうことだろう。
今のところは。

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